キャプテン・クックのエンデバー号 石炭運搬船から科学調査船に!

船舶
Archives New Zealand from New Zealand, CC BY-SA 2.0 , ウィキメディア・コモンズ経由で https://commons.wikimedia.org/wiki/File:HMS_Endeavour_(20340350738).jpg

こんにちは!今回は「エンデバー号」について解説します。

石炭輸送船が科学調査船に生まれ変わり探検へ出航!

1764年6月、イングランド北東部のウィットビーで運炭船(石炭輸送船)「アール・オブ・ペンブルック号」が進水しました。船体構造は木造外板平張りで、船体はホワイトオーク、竜骨と船尾材にはニレ、マストには松とモミが用いられています。船底は平底で、浅い水域でも航行が可能な上、乾ドッグに入れなくても陸に引き上げて修理が可能でした。

イギリス国王ジョージ3世は、1769年6月3日に起こる金星の太陽面通過の観測隊を太平洋に派遣する計画を承認します。科学者たちは世界各地で金星の太陽面通過を観測することで、地球と太陽の距離を割り出そうと考えていました。この計画に合わせて、海軍本部は観測隊に南方の未知の大陸を探すという密命を下しました。

この航海の指揮官には測量調査、地図作成に定評があったジェームズ・クック(キャプテン・クックとして知られる)が選ばれました。海軍は遠征の為に運炭船「アール・オブ・ペンブルック号」を購入し、船室用甲板や船倉の増設といった改造を実施し、科学調査船「エンデバー号」としました。「エンデバー号」は攻撃に備え、4ポンド砲10門(6門を甲板上に、4門は船倉に格納)、旋回砲12門(支柱に固定)で武装していました。

タヒチ島で金星の日面通過の観測、地球と太陽の距離を測定

1768年8月26日、「エンデバー号」はプリマスを出港しました。目的地はタヒチ島です。タヒチ島は1767年にサミュエル・ウォリスが発見したばかりの島でした。

「エンデバー号」は南米大陸を回りドレーク海峡経由で太平洋に出る為、途中各地に寄港して物資の補給や船の整備、植物標本の採集を行いながら、大西洋を南下していきました。9月12日~18日にはマデイラ諸島フンシャルに寄港しました。11月13日にはリオデジャネイロに到着し、12月7日まで停泊しました。そして1769年1月13日には南米ホーン岬に到達しました。しかし、荒天でなかなか進めず、15日にようやく通過し太平洋へ出て、1月21日までグッドサクセス湾で停泊しました。

4月13日、「エンデバー号」はタヒチに到着しました。乗員はタヒチ島北海岸の半島に観測所を設営しました。この半島は現在「ポイントヴィーナス」と呼ばれています。6月3日の金星の太陽面通過の観測は、ブラックドロップ効果により太陽面の縁に接近した金星の縁が不鮮明となる為、接触時刻を正確に記録することは困難でした。しかし、各地での観察記録から算出された地球と太陽の距離は1億5083万8824キロで、実際の距離1億4959万7870キロと比べ、誤差は僅か0.8パーセントでした。

未知の大陸を捜して南へ

金星の太陽面通過の観測後、「エンデバー号」は密命を受け南の未知の大陸を探す航海に出ます。タヒチ島を7月13日に出港後、タヒチ島周辺の島をめぐり、8月9日にこれらの島々をソシエテ諸島と命名しました。

その後、「エンデバー号」はソシエテ諸島を離れ、南下をつづけました。9月2日に南緯40度に到達しましたが大陸は見えず、西へ向かいニュージーランドへ向かいました。ニュージーランドはアベル・タスマンにより1642年に発見されていましたが、当時はまだ大陸の一部と思われていました。

10月6日、「エンデバー号」はニュージーランドに到着しました。ヨーロッパ人がニュージーランドに上陸するのは100年以上前の1642年にアベル・タスマンが発見して以来でした。「エンデバー号」は海岸線を回って測量し、北島を1770年2月5日に、南島を3月27日に一周完了しました。これにより、ニュージーランドは大陸の一部でなく島であると判明しました。

その後、「エンデバー号」はさらに西に向かい、4月20日にオーストラリア東海岸を発見し、4月29日 にボタニー湾に上陸しました。ヨーロッパ人として初めてのオーストラリア東海岸到達となりました。

「エンデバー号」は5月6日に出港し、東海岸沿いに地図を製作しながら北上していきました。5月23日にはバスタード湾に停泊し、翌日上陸しています。6月11日にはグレートバリアリーフで座礁し、「エンデバー号」の船体に穴が開きましたが、修理に適した岸に引き上げ穴をふさぎました。

8月22日には最北端のヨーク岬に到達し、オーストラリアとニューギニアがつながっていないと判明しました。

世界を一周しイギリスへ帰還

10月9日にはバタビア(現在のジャカルタ)に到着し、修理が行われました。しかし、12月26日の出発までの間、マラリア、赤痢が流行し、多くの船員を失いました。

その後、インド洋を横断し、1771年3月13日には喜望峰を回り、3月15日~4月15日にケープタウンに停泊しました。

7月10日にはイギリスが見え、7月12日にドーバー港に到着しました。

壊血病の予防に成功

「エンデバー号」は当時、長距離航海で多かった壊血病(ビタミンC欠乏が原因)での死者を出しませんでした。これはクックが食事にザワークラウトや柑橘類を取り入れた成果です。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は「エンデバー号」について解説しました。

運炭船として作られた「エンデバー号」は、キャプテンクックの指揮する科学調査船として世界一周の航海に出ました。「エンデバー号」は地球と太陽の距離の測定や、ニュージーランドが島であることの発見等、多くの成果を残しました。その名前はスペースシャトルにも受け継がれています。

最後までお読みいただきありがとうございました。ぜひ他の記事もお読みになってください。

参考文献

図説世界史を変えた50の船 イアン・グラハム 角敦子訳 原書房

図説船の歴史 庄司邦明

Captain Cook Society

Wikipedia日本語版・英語版

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