「青ガエル」の愛称で親しまれた東急5000系(初代) 各地の地方私鉄でも活躍

鉄道
Tamanon, CC BY-SA 3.0 , ウィキメディア・コモンズ経由で https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Matsumoto.JPG

こんにちは!今回は「東急5000系(初代)」について解説します。東急5000系は丸みを帯びた車体と緑色の塗装から「青ガエル」の愛称で親しまれました。

軽量化を追求した5000系の設計

1953年の春、東急電鉄の田中勇車両部長は東急車輛製造の渡辺四郎専務に対し、どこの軽量車両にも負けない超軽量車両の開発を命じました。目標は長さ1m当たり1トンとされ、寿命は10年持てば良いとしました。

車体が軽いと、走行音が静かになる上、保線費や電力費も抑えられます。また速度向上による所要時間短縮で、乗客へのサービス向上や運用に必要な編成数減の効果もあります。

東急車輛製造の設計陣は鉄道技術研究所の協力の元、モノコック構造を採用して軽量化を目指しました。車体断面は円筒形に近づけられました。側面は内側に傾斜しており、車体の裾部分はR400の曲線を描き、ドアもそれに合わせて曲がっています。

車体は側柱、横梁、垂木でリングを構成し、長手方向を長桁、腰帯、側梁で結合しました。そして厚さ1.6mmの外板、床板、屋根板が張られました。軽量化の為、垂木と横梁には穴が空けられていました。荷重が集中する台枠の枕梁、中梁、端梁には高抗張力鋼を採用しました。

完成した鋼体を用い、当時最新の技術であるワイヤーストレインゲージによる応力測定を実施しました。ボギー中心に近い側窓下の外板に応力が集中すると判明し、適切な補強を実施しました。これにより、限界に近い軽量化を実現しました。

正面は国鉄80系に準じた当時流行の「湘南顔」スタイルで、車体長18mの片側3ドア車でした。

台車はボルスタアンカー併用のインダイレクトマウント台車TS-301型です。台車は当初、高抗張力鋼板溶接構造で組み立てられましたが、横梁と側梁の溶接部に亀裂が発生したことから、台車枠全体を普通鋼製に変更しました。

内装は軽合金で組み立てられ、壁は明るいグレーとされました。座席はロングシートで、色は赤です。蛍光灯には眩しさを減らすルーバーを取り付け、カバー付きと露出式の良いとこどりとしました。暖房は主抵抗器の熱をシート下から送る方式としました。

電装品一式は東芝製が選ばれましたが、これは東急の五島昇社長と東芝の石坂泰三社長が親密だった為です。

主制御装置PE11はカム接触器を用いた多段制御器で、カムモーター1台が抵抗制御器と組み合わせ接触器を動作させ、力行26段(直列12段、並列11段、弱め界磁3段)、制動20段となっています。

主電動機の出力は110kWで、駆動装置は直角カルダン駆動です。

電気ブレーキは電空一体の併用ブレーキシステム「AMCD」を日本エヤーブレーキと共同開発し、15km/hまで電気ブレーキで減速し、その後空気ブレーキで減速します。これにより制輪子の摩耗を減らしました。

主抵抗器はリボン型とし、電動発電機に取り付けられたファンを用い強制通風することで重量を3分の1としました。当初、シロッコファンで吸い出す方式からプロペラファンで押し込む方式へ変更されました。これに伴い暖房ダクトも変更されています。

電動空気圧縮機はベルト作動の3YS型を搭載しています。

当初は3両編成で、制御電動車デハ5000形と中間付随車サハ5050形が用意されましたが、後に最大6両編成を組むようになり、1957年に中間電動車デハ5100形が、1959年に制御車5150形が登場しました。サハ5050形はデハ5000形の増備に伴い、番号の重複を避ける為サハ5350形に改番されました。

運用・更新

5000系は1954年10月15日より東横線で運転を開始しました。静かで乗り心地が良いことから乗客に好評で、「青ガエル」の愛称で親しまれました。

1955年4月1日のダイヤ改正では、昇圧工事の為に1952年より休止していた東横線の急行運転が再開され、5000系は急行運用に入りました。このとき、乗務員室にオープンリール式のテープレコーダーを置き、女性の声で案内放送をするという試みがなされましたが、メンテナンスの問題から短期間に終わりました。

1958年12月にはラジオ関東の放送を誘導無線方式で受信、車内で流しました。特に相撲中継が好評を集めましたが、取組の最中に案内放送で中継が途切れることもありました。このサービスは1964年の誘導無線の業務無線への転用まで実施されました。

当初10年使えればよいとされた5000系ですが、様々な更新工事を受けて長く運用されました。当初採用された主抵抗器の熱を利用した暖房は、抵抗器温度の調節が難しく電熱器に変更されています。運用線区も東横線から田園都市線、大井町線、目蒲線へと転用され活躍をつづけました。

こうして、5000系は当初の予定10年を大きく超え30年以上にわたり運用され、1986年6月18日に東急から引退しました。東急から姿を消した後も、地方私鉄に譲渡され活躍を続けます。

地方私鉄への譲渡

長野電鉄は1981年の長野線長野~善光寺下間の地下化に備え、防火対策「A基準」に合致する車両を探し、5000系に注目、東急に譲渡を希望します。

東急側は5000系より旧型の3450形が残っていた為、3450形を勧めましたが、長野電鉄は5000系を強く望み、ながの東急百貨店社長から東急本社に願い状が届いたこともあって、5000系の譲渡が決まりました。1977年より29両が移籍、塗装が変更され「赤ガエル」と呼ばれました。

18m車体、1M方式で軽量な5000系は地方私鉄の要望に見合った車両であり、長野電鉄の他、福島交通、岳南鉄道、熊本電鉄、上田交通、松本電鉄に譲渡されました。最後まで現役だった熊本電鉄では2016年2月14日まで活躍しました。

保存車

現存する車両は動態保存車が1両、静態保存車が3両、部分保存車が2両です。

動態保存車は熊本電鉄北熊本車庫の5101A号が唯一です。東急5000系の中で最後まで現役であった車両です。

東急は1993年に保存目的で上田電鉄に譲渡された5000系デハ5001と5200系デハ5201の返却を受け、長津田検車区を経て東急車輛製造で保管していました。しかし、2006年にデハ5001は渋谷区に譲渡され、車体前半部のみにされて渋谷駅スクランブル交差点前のハチ公広場で観光案内所となりました。2020年にデハ5001は再開発に伴い撤去され、忠犬ハチ公ゆかりの地である秋田県大館市に譲渡・移設されました。ちなみに5200系デハ5201の保存は続けられています。

その後、東急車輛製造の後身である総合車両製作所(JR東日本に事業譲渡・子会社化)は、一度断念した5000系の保存を再び計画します。長野電鉄に譲渡され、廃車後に「トレインギャラリーNAGANO」で展示されていた2両編成のうちモハ2510(東急時代はデハ5015)を取得し、同社工場へ輸送しました。もう1両のクハ2560(東急時代のデハ5016)は解体されましたが、先頭部分は保存されたようです。(ネット上に解体時に先頭部分のみ搬出された目撃情報あり)

アルピコ交通(旧松本電鉄)は、運用終了後も2両編成1本(東急時代の車番デハ5055-デハ5048)を保存していました。2011年には東急時代の塗装に戻されました。一時は解体が決まりかけましたが、一般社団法人電鉄文化保存会が2019年に入手し、2020年には群馬県の保存場所に移転しました。

まとめ

今回は「東急5000系(初代)」について解説しました。

東急5000系は10年使えればよい超軽量車両として登場しましたが、東急でも約30年、譲渡先の地方私鉄では登場から約60年にわたり走り続けました。

最後までお読みいただきありがとうございました。ぜひ他の記事もお読みになってください。

参考文献

東急電鉄まるごと探見 宮田道一 広岡友紀 JTBパブリッシング

Wikipedia

車両紹介|電車・駅のご案内|熊本電気鉄道株式会社

一般社団法人電鉄文化保存会

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