世界初のジェット旅客機を襲った金属疲労の恐怖 デ・ハビランドコメット

航空機
Olympia-kuva Oy, CC BY 4.0 , ウィキメディア・コモンズ経由で https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Helsingin_olympialaiset_1952_-_XLVIII-295_-_hkm.HKMS000005-km0000mrhf.jpg

こんにちは!今回は世界初のジェット旅客機デ・ハビランドコメットについて解説します。世界初のジェット旅客機はどんな飛行機だったのでしょうか?一緒に見ていきましょう。

戦後のイギリス製旅客機の計画を立てたブラバゾン委員会

1942年、第二次世界大戦の終結後にイギリスが開発すべき旅客機の構想について検討するブラバゾン委員会が発足しました。ブラバゾン委員会は軍用機4機種の民間転用と、タイプⅠ~Ⅴ(Ⅱ、ⅤはA・Bに分かれる)とされた7機種の新規開発を決定します。そのうちタイプⅣはジェット郵便機計画を経て、ジェット旅客機計画となりました。

コメットの設計

1945年2月、タイプⅣの開発担当はデ・ハビランド社に決定し、DH106と命名されました。デ・ハビランド社での初期の設計は無尾翼機で、主翼後退角は40度、4基のエンジンは主翼に埋め込まれ、座席数は24席となりました。その後、1946年5月には尾翼付きの設計になり、座席数も36席に拡大されました。最終的に主翼後退角は20度に抑えられ、尾翼は後退角なしとなりました。速度は低下しましたが、離着陸性能や低速での操縦安定性は向上しました。

エンジンは最初の型では自社製のデ・ハビランド・ゴーストを搭載しましたが、将来的には開発中のロールスロイス・エイヴォンを搭載予定としました。エンジン搭載方式に当時のイギリス製爆撃機で一般的だった主翼付け根に埋め込む方式を採用しました。この方式のメリットとして、エンジンが機体の中心線に近いことから、一部エンジンが停止し推力が非対称になった時のヨーモーメントが小さく、垂直尾翼と方向舵の面積を小さくできることが挙げられます。

しかしデメリットも多くありました。この方式ではエンジンの吸排気口の為に翼桁に穴をあける必要があり、またエンジンの整備・交換の為に主翼外板は取り外し式となり、外板が構造強度を担わない為、主翼の強度確保が難しく、補強で重量がかさみます。主脚引き込みスペースの問題もあり、主翼付け根にエンジンが埋め込まれている為、多くの機種に見られる主翼付け根に主脚を取り付けて、内側に引き込み車輪を胴体下部に格納する方式は使えません。コメットの場合、主脚はエンジンより外側に取り付けられ、外側に引き込む方式としています。主翼内にエンジンと主脚格納スペースがある為、主翼内燃料タンクが狭くなるのも欠点となりました。

胴体は真円断面で、座席は横5列配置となっています。

初飛行から就航まで

1947年1月、BOACから8機を受注し、12月には愛称が「コメット」に決定しました。1934年10月のマックロバートソン・エアレースで優勝したレース機DH88コメットの名前を継いでの命名でした。

1949年4月2日にハットフィールド工場で試作1号機がロールアウトし、同年7月27日に初飛行しました。初飛行を担当したテストパイロットは夜間戦闘機で活躍した英空軍の撃墜王ジョン・カニンガムでした。その後、同年のファーンボロ航空ショーで一般公開されました。翌年には試作2号機が完成し、2機の試作機で飛行試験が行われました。

その後、1951年1月に量産初号機が初飛行しました。試作機の主脚は大型タイヤ1輪でしたが、量産機では4輪ボギーに変更されています。

1952年1月に耐空証明が交付され、1952年5月2日にBOACのロンドン~ヨハネスブルグ線で就航しました。従来のレシプロ旅客機より速い巡航速度で所要時間を短縮しただけでなく、客室の騒音や振動が小さく機内の快適性も高まり、乗客からも好評でした。運航初年度には28000人が搭乗し、搭乗率は88%となりました。

同年8月にはセイロン(スリランカ)、10月にはシンガポールへと路線を拡大し、1953年4月には東京にも乗り入れました。羽田就航を前に、1952年7月8日には量産初号機が試験飛行で羽田へ飛来しました。その際、最新鋭ジェット機である本機と駕籠(かご)を並べた写真が撮られています。

世界初のジェット機としてイギリスの誇りとなったコメットには王室も搭乗し、1952年8月4日にフィリップ殿下がヘルシンキ五輪からの帰国時にコメットに搭乗、1953年6月30日にはジェフリー・デ・ハビランド卿の特別便にエリザベス女王、皇太后、マーガレット王女が搭乗しました。

最初の量産型であるコメット1に続き、水メタノール噴射装置を搭載し、最大離陸重量と燃料搭載量を増加した改良型のコメット1Aも製造されました。

運用初期の事故と改善

1952年10月26日、BOACのコメット1がローマ・チャンピーノ空港で離陸中止後にオーバーランする事故が発生しました。事故原因はパイロットエラーで、初の全損事故となりましたが、乗員乗客35名は全員無事で、重症者もいませんでした。

1953年3月3日、カナダ太平洋航空のコメット1Aがカラチ空港で離陸に失敗しました。同機は回航中で乗員5名と同乗していた技術者6名全員が死亡しました。直接の事故原因はパイロットエラーでしたが、コメットは離陸時の過大な引き起こしによって高迎え角となると主翼が失速し、エンジン推力が低下することが判明した為、主翼前縁の形状変更と境界層フェンスの取り付けが行われ、失速特性の改善が図られました。 

就航から丁度1年となる1953年5月2日に、BOACのコメット1がカルカッタ空港離陸6分後に空中分解し、乗員乗客43人全員が死亡しました。事故原因は乱気流の中で過大な操作を行った為、水平尾翼の桁が折れたことでした。コメットの操縦桿が油圧式で軽く、操作した感触がないことが過大な操作につながったと考えられ、対策に操縦桿の操作に応じた感触を与えるシステム「Q feel」が搭載されました。また、気象レーダーも装備されました。

1953年6月25日にはUATのコメット1がダカール空港で着陸に失敗する事故が発生しています。機体は全損となりましたが、乗員乗客は無事でした。

2度の空中分解事故

1954年1月10日午前10時31分、シンガポールからロンドン線に向かっていたBOACのコメット1(登録記号G-ALYP・量産初号機)が経由地のローマを離陸しました。コメットの10分前にローマを離陸し、同じくロンドンへ向かっているBOACのアルゴノートに、途中で追い越すコメットが無線で雲高を知らせることになっていましたが、その途中で通信は途絶しました。コメットは離陸から21分後、地中海エルバ島上空で空中分解したのです。この事故で乗員乗客35人全員が死亡しました。エルバ島は晴れていた為、事故の目撃者は多く、爆発音や火の玉、煙の証言が集まりました。その後、同日夕方までに15名の遺体と郵便物、機体の破片が発見されました。 

コメットは全機が飛行停止となり、点検が実施されました。しかし、異常・欠陥は見つからず、事故原因は不明のままでした。コメットは安全性の向上の為に考え得る50か所の改修を施して、3月23日より飛行が再開されました。また、水深150メートルに沈んだ事故機の破片回収は続けられました。

そして再開から程ない1954年4月8日、南アフリカ航空がチャーターしたBOACのコメット1(登録記号G-ALYY)がローマからカイロへの飛行中、18時32分ローマ離陸後33分ナポリ近くの地中海で離陸後にカイロ到着予定時刻を通報した後に消息を絶ちました。今回は洋上の為事故の目撃者はいませんでしたが、捜索で遺体と浮遊物が発見されました。この事故を受け、再びコメットの飛行は飛行停止となりました。

事故調査とその教訓

FAA, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Comet_G-ALYU_in_the_water_tank_for_pressure_tests.jpg
G-ALYUを用いた与圧サイクル試験の様子

どちらの事故も離陸後20~30分、上昇の頂点に近づいたタイミングで発生しました。

事故発生時、G-ALYPは飛行回数1290回・飛行時間3681時間、G-ALYYは飛行回数900回・飛行時間2704時間で、金属疲労による破壊であるならば金属疲労が早期に進行したことになります。成層圏の低温で構造が脆くなった、金属接着の信頼性に問題があったといったことも疑われました。

原因究明の為、BOACで使用されていたコメットG-ALYUを用いて、ファーンボロの王立航空研究所で与圧サイクル試験が実施されました。コメットの胴体全体を水槽に沈め水圧で荷重をかけ、1サイクルを5分で行い、1日に288回分の飛行サイクルを再現しました。疲労試験は飛行中の荷重の変動が重要なので、一定の圧力がかかっている時間は無視できます。

そして、合計飛行サイクル3057回(実飛行1221回・試験1836回)で客室窓の角からクラックが入り、外板が瞬時に押し出されました。

地中海でのG-ALYPの破片の引き上げ作業では、1954年9月までに主要構造の70%、動力部分の80%、システム機器の50%が回収されました。調査により、胴体上部のADF(自動方向探知機)アンテナ窓の角から亀裂が生じて、胴体中央上面から急速に破壊されたと判明しました。

与圧試験は開発時にも行われ1万8000回の飛行を保証しましたが、当初の与圧試験の方法には誤りがありました。試験には部分的な客室を用いた為、応力が集中する箇所で応力集中の程度が軽減されていました。また、試験の初めに定格の2.5倍の圧力をかけ強度余裕を確認しましたが、これにより応力集中箇所が塑性変形を起こし、圧縮残留応力で疲労に強くなり、見かけの疲労寿命を延ばしていました。

事故の報告書は1954年11月にまとめられました。事故の教訓から応力集中を防ぐ設計が行われるようになり、破損しても最小限にとどめるフェールセーフが取り入れられました。また、構造寿命を見積もる方法が確立されました。

旅客運用には就かなかったコメット2・3

搭載エンジンをコメット1のデ・ハビランド・ゴーストに代わってロールスロイス・エイヴォンとし、胴体を延長、燃料搭載量を増やして航続距離を伸ばした改良型としてコメット2・3が開発されていましたが、連続事故の影響で発注はすべてキャンセルされ、旅客運用に就くことはありませんでした。

コメット2は胴体を0.94m延長した型で、1953年8月27日に初飛行しました。製造された機体は胴体構造を改修した上で、イギリス空軍で輸送機として使用されました。

コメット3は胴体を5.64m延長し、ウイングピニオンタンクを装備した型で、1954年7月19日に初飛行しました。コメット3は試作機1機のみが完成し、試験飛行に用いられました。

復活のコメット4

Ralf Manteufel (GFDL 1.2 http://www.gnu.org/licenses/old-licenses/fdl-1.2.html または GFDL 1.2 http://www.gnu.org/licenses/old-licenses/fdl-1.2.html), ウィキメディア・コモンズ経由で
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BOAC_Comet_Manteufel.jpg
BOACのコメット4

事故調査の結果を受けてコメットの胴体は再設計され、胴体外板を厚くし、客室窓を楕円形にする等切り欠き部に丸みを持たせました。また、エンジン排気口を外側に曲げ、主翼付け根に熱がかからないようにされました。

コメット3をベースに問題となった点を改修し、改良型ロールスロイス・エイヴォンを搭載、燃料搭載量をさらに増やして航続距離を伸ばしたコメット4は1958年4月27日に初飛行しました。

コメット4は1958年9月30日にBOACに納入され、1958年10月4日よりロンドン~ニューヨーク線で就航、ジェット旅客機初の大西洋横断路線となりました。

しかしコメットの運航再開まで4年もかかったため、イギリスは先行者利益を失ってしまいました。コメットの復活を前に、ソ連では爆撃機を改造したジェット旅客機Tu-104が就航していました。アメリカでもジェット旅客機の開発が進み、コメット4就航の1か月後にはボーイング707が、1年後にはDC-8が就航しました。

コメットは運航再開時には既に旧式化していた上、連続事故によるイメージ悪化の影響が残り、程なく登場したより大型で高性能、経済性に優れたアメリカ製ジェット旅客機に対抗することはできませんでした。アメリカ製ジェット旅客機に対抗するべく大幅な改良型としてコメット5が計画されましたが、中止されています。

BOACも他社への対抗上707の導入を決め、1956年に発注しています。同社向けに英国製ターボファンエンジンのロールスロイス・コンウェイを搭載した707-420と呼ばれる仕様で、1960年に就航しました。BOACでは国産エンジンを強調し「ロールスロイス707」と宣伝していました。

1964年、707やDC-8に対抗できるスペックを持ったイギリス製ジェット旅客機、ヴィッカースVC-10が就航しました。同年にコメットは生産終了となり、1964年2月に最後の機体が納入されました。

その後、コメットをベースにイギリス空軍の哨戒機ホーカーシドレーHS801ニムノッドが開発されました。2機の試作機は売れ残ったコメット4Cを改造して制作されましたが、量産機47機は新造機です。ニムノッドは1967年に初飛行し、1969年から運用を開始しました。胴体下部を拡張し、エンジンをターボファンエンジンのロールスロイス・スぺイとするなど大幅に設計変更されています。

その後のコメット

コメット4は1965年にBOACから退役しましたが、中小航空会社に中古機として売却され、活躍をつづけました。なかでもイギリスのダンエアはコメットを愛用したことで知られ、中古機を買い集め最盛期にはコメット4、コメット4B、コメット4Cの各タイプ合わせて50機を運航しました。

1980年11月9日、最後まで残ったダンエアのコメットが引退し、本機の旅客運用が終了しました。1997年3月14日には英国技術省の試験機として用いられていたコメットが引退し、コメットは姿を消しました。

その後もコメットをベースにした哨戒機ホーカーシドレーHS801ニムノッドは運用が続けられましたが、2011年6月28日に退役しました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は「デ・ハビランド・コメット」について解説しました。

世界初のジェット旅客機として就航したコメットは、金属疲労による2度の大事故を起こし、多くの犠牲者を出しました。コメットの事故調査から得られた教訓は、安全な与圧キャビンの設計方法を確立し、現代のジェット旅客機にも生かされています。

最後までお読みいただきありがとうございました。ぜひ他の記事もお読みになってください。

参考文献

ジェット旅客機進化論 浜田一穂 イカロス出版

墜落 第二巻 新システムの悪夢 加藤寛一郎 講談社

旅客機発達物語 石川潤一 グリーンアロー出版社

世界の飛行機 リッカルド・ニッコリ 中田泉・石井克弥・梅原宏司訳 河出書房新社

ザヒストリー航空機大百科 アンソニー・エバンス デービッド・ギボンズ 源田考監修・訳 NEWTON PRESS

航空100年 諸角裕 双葉社

De Havilland DH106 Comet 1 & 2|BAE Systems

De Havilland DH106 Comet 3 & 4|BAE Systems

Wikipedia英語版

タイトルとURLをコピーしました