こんにちは!今回はキハ65形「エーデル」について解説します。「エーデル」はドイツ語で「高貴な・気高い」等の意味を持ちます。花の名前の「エーデルワイス」もこのエーデルですね。「エーデル」というと漫画「葬送のフリーレン」のキャラクターをイメージされる方も多いかもしれません。さて、キハ65形「エーデル」はどのような車両だったのでしょうか。
エーデル丹後
1988年7月16日、福知山と宮津を短絡する第三セクター宮福鉄道(後の北近畿タンゴ鉄道、京都丹後鉄道)の宮福線が開業しました。同時に新大阪~天橋立の特急「エーデル丹後」・急行「みやづ」が設定されます。
この「エーデル丹後」に充当する為、キハ65形を改造し「エーデル」1次車が登場しました。「エーデル」1次車は600・1600番台を名乗り、キハ65 601-キハ65 1601で2両編成を組みました。
「エーデル」は種車がキハ65形であること、展望車への改造、電車と被牽引状態での併結運転を行うことが1986年登場の「ゆぅトピア」と共通していますが、「ゆぅトピア」が全車グリーン車なのに対し、「エーデル」は全車普通車でした。
展望室は車体前方を切断し、新しい構体を接合しています。展望室は丸みを帯びたデザインとなり、前面・側面に曲面ガラスが用いられました。展望室の床は階段状になっており、固定式リクライニングシートを2+2配置で4列設置しています。
一般室は2+2配置、シートピッチ930mmで回転式リクライニングシートが設置されました。窓割がシートピッチに合わせて変更され、固定窓化されました。
連結器は電車と同じ密着連結器に変更されました。485系特急「北近畿」の編成後部に併結し、ブレーキ協調・被牽引状態で120km/h運転が可能でした。自走時の最高速度は95km/hに据え置かれています。
エーデル鳥取
1989年3月11日、大阪~倉吉を福知山線経由で結ぶ「エーデル鳥取」が運転を開始します。1986年11月の福知山線城崎電化により、大阪発の福知山線優等列車は電車特急「北近畿」に統一され、鳥取方面への直通列車は廃止されていました。JR西日本は直通列車を復活することにしましたが、キハ181系が不足していた為、キハ65形「エーデル」2次車が投入されました。仕様の違いから700・1700番台に区分されています。
編成はキハ65 701(展望車)-キハ65 1711-キハ65 711-キハ65 1701(展望車)の4両が基本で、増結車・予備車としてキハ65 721が用意されました。中間車の運転台は原形のまま残されています。側窓は固定化されましたが、窓割は変更されずそのままになっています。
連結器は1次車との連結を考慮し密着連結器とされましたが、運用上電車での牽引への対応は行われませんでした。最高速度は95km/hに据え置かれています。
シュプール&リゾート
1989年12月、「シュプール&リゾート」として3次車が登場しました。スキー列車シュプール号、リゾート列車での使用と増結用として2両編成2本が用意されました。その仕様から600・1600番台に区分されますが、改造当初の第2編成は仕様上700・1700番台に区分されていました。
第1編成はキハ65 611-キハ65 1611、第2編成はキハ65 612(712)-キハ65 1612(1712)です。中間に増結することを想定し、展望車化はされず貫通型となっていますが、助士席側前面窓と貫通扉窓を拡大し、客室との仕切りをガラスとすることで前面展望を実現しています。
連結器は密着連結器を装備し、電車牽引での120km/h運転にも対応していました。第2編成は改造当初は電車牽引に対応せず、1992年9月に対応改造の上で改番されています。
エーデル北近畿
1990年3月30日、大阪~浜坂を福知山線経由で結ぶ「エーデル北近畿」が運転を開始しました。4次車が登場しました。800・1800番台に区分されています。
編成はキハ65 801(展望車)-キハ65 1811-キハ65 811-キハ65 1801(展望車)の4両を基本に、増結車・予備車としてキハ65 812・キハ65 1812が用意されました。1991年にはキハ58系のキハ58 7301が追加されています。キハ58 7301は急行「砂丘」用7200番台と同仕様でした。
連結器は種車の小型密着自動連結器で最高速度も据え置きの95km/hでした。連結器が違う為、他のエーデルや電車とは併結できませんが、一般の気動車との併結が可能でした。
「エーデル」の運用
4次にわたり増備され、3つの特急に投入された「エーデル」。展望車を持つ1次車「エーデル丹後」、2次車「エーデル鳥取」、4次車「エーデル北近畿」をまとめて「エーデル3兄弟」とも呼ばれました。
しかし、その後の高速化、新線開業、電化といった流れの中、同車を取り巻く環境は厳しくなっていき、活躍の場を失っていきました。
1991年9月1日、七尾線が電化され、直流電化の七尾線と交流電化の北陸本線を直通できる交直流両用の普通電車が必要になりました。そこで、直流用の113系に交流機器を搭載し、交直流両用の415系に編入することが計画されました。
485系は交直流両用ですが、福知山運転所の485系は直流区間のみで運転されていました。そこで、1990年9月から同運転所の485系から交流機器を撤去し、直流用の183系に編入、捻出した交流機器を113系の415系化改造に充てました。183系編入改造と同時に車内アコモデーションが改善され、シートの快適性では「エーデル」と遜色がなくなりました。
1991年3月、福知山線の電車特急の最高速度が引き上げられ、所要時間が短縮されました。これにより最高速度95km/h運転の「エーデル」は停車駅が絞られていましたが、それでも大阪~福知山間の所要時間は183系と比べ20分も差がついてしまいました。
1994年12月3日、第三セクター智頭急行が開通し、同線経由の特急「スーパーはくと」「はくと」の運転が開始されました。大阪~鳥取をわずか2時間半で結び、4時間かかる「エーデル鳥取」は途中の経由駅こそ異なりますが、乗り通す需要は奪われました。
1996年3月16日、北近畿タンゴ鉄道宮福線と宮津線の宮津~天橋立間が電化され、「エーデル丹後」は「みやづ」と共に廃止され、電車特急「文殊」に置き換えられました。運用を失った1次車は波動用に転用されました。
1999年10月2日、「エーデル鳥取」と「エーデル北近畿」が城崎止まりとした上で電車化され「北近畿」に編入される形で廃止されました。3次車は波動用になり、4次車は大阪~米子(福知山線経由)の夜行急行「だいせん」に投入されました。
その後、急行「だいせん」は2004年10月16日に廃止され、4次車は11月11日に廃車されました。波動用として臨時列車で活躍した1~3次車は2010年内に段階的に廃車されました。
キハ58改造 北近畿タンゴ鉄道「レインボーリゾート」
1990年3月 北近畿タンゴ鉄道の特急型気動車「タンゴエクスプローラー」を補完する為、キハ58系が改造の上で譲渡されました。形式は搭載エンジン数に由来し、1エンジン車キハ28形はKTR1000形、2エンジン車キハ58形はKTR2000形となりました。愛称は「レインボーリゾート」です。
車番は第1編成はKTR2001-KTR1001、第2編成はKTR2002-1002です。第1編成は国鉄清算事業団所有車、第2編成はJR西日本所有車でした。
両編成ともリクライニングシートに座席が交換され、第2編成は「エーデル」に準じた構造の展望車に改造されました。JR西日本の「エーデル」展望車にはないキハ58ベースで、一般室部分の側窓や張り上げ屋根にキハ58の特徴が見られます。2両編成での運転の他、第2編成の中間に第1編成を挟んだ3・4両編成での運転も行われました。最高速度は種車同様の95km/hでした。
「レインボーリゾート」の引退はJR西日本の「エーデル」より早く、「タンゴディスカバリー」の導入に伴い、1995年に第2編成が、1996年に第1編成が廃車されています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回はキハ65「エーデル」について解説しました。
キハ65形を改造した「エーデル」は、非電化路線直通の福知山線特急列車の設定に貢献しました。しかし、電化や新線開業により「エーデル」の活躍の場は失われ、最高速度95km/hでは高速化の時代に対応することはできませんでした。当時乗車された方はエーデルの車窓からどのような景色を見られていたのでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございました。ぜひ他の記事もお読みになってください。
参考文献
日本のパノラマ展望車 徳田耕一 JTBパブリッシング
国鉄・JR悲運の車両たち 寺本光照 JTBパブリッシング
ジョイフルトレイン図鑑 小賀野実 JTBパブリッシング
Wikipedia