日野自動車がフランスの乗用車をライセンス生産していた!? 「日野ルノー」の物語

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こんにちは!今回は「日野ルノー」について解説します。

日野自動車の乗用車進出、ルノーとの提携

現在はトラックやバスを生産している日野自動車ですが、かつては乗用車も生産していました。1950年代、日野自動車の乗用車進出において重要な役割を果たしたのが日野とルノーの提携により生産された「日野ルノー」です。

日野重工業(後の日野自動車)は1942年にヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)から独立しました。戦時中は戦車、軍用車を生産し、戦後は社名を日野産業、そして日野ヂーゼル工業と改めトラック、バスを生産しました。日野自動車に改名するのは日野ルノー生産開始後の1959年のことですが、以降の解説では便宜上「日野自動車」に表記を統一します。

戦後、GHQにより乗用車の製造は制限されていましたが、1949年10月に全面解禁されました。その後、1952年に外車の輸入解禁が行われると、当時の日本車より高性能な外車に対抗する為に技術の向上が必要になりました。そこで、海外メーカーと提携して技術やノウハウを手に入れる為にノックダウン・ライセンス生産を行う動きが起こりました。1952年から日産自動車はオースチンと提携しA40サマーセットサルーン・A50ケンブリッジサルーンを生産、1953年からはいすゞ自動車がルーツモーターズと提携しヒルマンミンクスを生産しています。

日産が生産していたオースチン車に関してはこちらで解説しています。

このような情勢の下で乗用車への進出を図っていた日野自動車も海外メーカーとの技術提携を計画します。

1953年、日野自動車はフランス・ルノー公団と技術提携を結びます。この提携に基づき日野自動車はルノー4CVをノックダウン生産し、日野ルノーとして販売しました。その後、徐々に部品の国産化を進め、段階的にライセンス生産へと切り替えていきました。国産部品の割合は1954年25%、1956年75%と拡大し、1957年末のPA58型で完全国産化を達成しています。技術提携契約は当初7年間とされていましたが延長され、日野ルノーは1953年3月~1963年8月の間、約10年にわたり生産されました。

ルノー4CVの優れた性能と日本独自の改良

Rundvald, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Renault-4CV-1.jpg
本国仕様のルノー4CV

ルノー4CVはフランス本国では1946年に生産を開始したリアエンジン・リアドライブ方式の4ドア小型セダンです。リアに搭載されるエンジンは748cc水冷直列4気筒OHVで21馬力を発揮、トランスミッションはフロアシフトの3速マニュアルとなっています。ドアヒンジは前後ドア共にセンターピラーにあり、前ドアは後ろヒンジ、後ドアは前ヒンジとなっています。リアエンジン車なのでスペアタイヤとトランクルームはボンネットに設けられています。

フルモノコックボディ、4輪独立懸架、ラックアンドピニオン式ステアリング機構を採用した4CVは当時としては先進的な設計で、同時期の日本車を凌駕する性能を誇りました。

日野自動車が提携先にルノーを選んだ理由としては、4CVの性能の高さや維持・整備コスト、日本の道路事情に合うコンパクトさが挙げられています。

生産中にマイナーチェンジによる外装デザイン変更が行われており、1954年のPA55型から本国でのマイナーチェンジに合わせてフロントのメッキ飾りがそれまでの細い6本から太い3本へ変更、1956年のPA57型では3本のメッキ飾りが左右で結ばれた日野独自のデザインに変更されています。

当初、右ハンドル化以外は基本的にオリジナル設計のままで生産されていましたが、当時の日本の劣悪な道路事情下での酷使によって足回りの故障が頻発しました。そこで日本の道路事情に合わせて改良が重ねられました。悪路に対応して足回りやボディーを強化したことで信頼性を向上しています。

また、1954年のPA55型からは前後のバンパーを延長して全長を延ばしています。これは本国仕様の全長のままでは当時の法律により制限速度が低くなる為、それを回避するための措置でした。

日野自動車は新聞広告や全国各地の展示会で販売を促進し、生産が間に合わないほど売れました。

カタログでは優れた経済性をアピールし、1ガロン(3・79リットル)70~80kmの低燃費とそれによる給油の手間の少なさを具体的な使用例と共に紹介しています。狭い道や未舗装路でも走りやすい小型軽量な車体と優れた居住性もアピールしました。前述の通り日本の道路事情に合わせ耐久性を向上させたサスペンションやトランスミッション、リアアクスル等の改良に関しても図説で紹介しています。

「御家庭に、ビジネスに、タクシーに」と宣伝されましたが、当時自家用車はまだ一般的ではなく、多くはタクシーとして用いられました。自家用車の普及率が低い当時でも医師は往診に用いる為に車を持っていたことから医師会誌に専用の広告も展開されました。

そのスタイルから「亀の子ルノー」の愛称で親しまれました。

後継車の誕生と生産終了

日野ルノーは根強い人気に支えられ1961年4月に後継となる日野コンテッサ900生産開始後も併売、1961年9月にフランス本国で4CVの販売が終了しても尚生産が続けられました。10年以上にわたって生産された日野ルノーは1963年8月、遂に生産終了となりました。

日野自動車は日野ルノーの生産で培った技術とノウハウを生かし、5年かけて自社開発した乗用車コンテッサ900を1961年4月に発売、1964年9月には新型のコンテッサ1300を発売しています。コンテッサ900・1300はどちらも日野ルノーと同じくリアエンジン・リアドライブを採用しています。しかし日野自動車は1966年トヨタ自動車と業務提携を結んだことにより1967年1月をもってコンテッサ1300の生産を終了、乗用車から撤退しました。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は「日野ルノー」について解説しました。

ルノー4CVのノックダウン生産・ライセンス生産のノウハウはコンテッサの開発に活かされましたが、トヨタとの業務提携後、日野はトラック・バスに専念することになり乗用車市場から姿を消すことになりました。

最後までお読みいただきありがとうございました。ぜひ他の記事もお読みになってください。

参考文献

昭和・平成に誕生した懐かしの国産車 渡部素次 三樹書房

日野ルノー 名車文化研究所

「日野ルノー」って何?商用車の日野 かつては乗用車も作っていたってホント? 乗りものニュース

外車でありながら国産車「日野ルノー」 朝日新聞デジタルマガジン&

日野 ルノー PA62型|車両データーベース|アーカイブズ|トヨタ博物館

亀の子ルノーと親しまれた/日野 ルノー 4CV デラックス,1961年式(昭和36年)-日本自動車博物館|乗りもののまち 小松

日野ルノー|ヌマジ交通ミュージアム

Wikipedia

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