英国の技術を学べ! 日産オースチンA40サマーセットサルーン・A50ケンブリッジサルーン

自動車

こんにちは!今回は日産オースチンA40サマーセットサルーン・A50ケンブリッジサルーンについて解説します。戦後、日本の自動車メーカーの技術力は世界に後れを取っていました。その中で日産自動車はイギリスのオースチン社と提携し、ノックダウン生産・ライセンス生産を通して技術力を国際水準へと高めていったのです。

技術提携で国産車の技術向上を

戦時中は軍用車やトラックの生産が優先され、乗用車の生産は禁止されていました。終戦後もGHQによって、乗用車の生産は禁止されたままでした。段階的な生産認可を経て、1949年10月に全面的に解禁されます。

長い空白期間により国内メーカーと外国メーカーの技術力の差は大きく広がっていました。国産車の性能は外国車に遠く及びませんでした。1950年に日本人への外国車中古販売が解禁され、外国車が出回るようになると国産車の性能の低さが浮き彫りになり、自動車が日本の基幹産業となった今では考えられない話ですが、「国産乗用車不要論」まで出てくるほどでした。

1952年6月、通産省は国産車の技術水準を国際基準に高め、日本の乗用車産業を育成する為に「乗用車関係外資導入に関する基本方針」を決定しました。外国メーカーとの技術提携を促進し、生産・設備に関するノウハウを吸収しようとするものです。

この方針のもとで、いすゞ自動車はルーツモーターズと提携しヒルマンミンクスを、日野はルノー公団と提携し4CVをノックダウン生産を開始しました。その後、国産部品の比率を徐々に高め、ライセンス生産へと切り替えていくことになります。

日野ルノーに関してはこちらの記事で解説しています。

日産とオースチンの技術提携、A40サマーセットサルーンの生産

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nissan-AustinA40.jpg
日産オースチンA40サマーセットサルーン

日産もオースチンと1952年12月4日に提携を調印、7年契約でオースチンA40を年間2000台ノックダウン生産すると契約しました。

オースチンを選んだ理由は次の通りです。伝統あるブランドの知名度・信頼性、米国市場での輸入車シェア1位であること、国情に合う小型車であり、当時日本国内で1000台以上が使用されていたこと、エンジンの性能が優れていたことなどでした。

1953年4月4日に1号車がラインオフし、5月8日に通産大臣、駐日英国大使を招いての記念発表会が行われ、同月より発売されました。A40サマーセットサルーンは乗り心地の良さと高い完成度で、市場でも好評を博しました。そのスタイルから「だるまオースチン」の愛称で親しまれました。

徐々に部品の国産化を進め、ノックダウン生産からライセンス生産へ切り替えていき、3年で完全国産化する予定でした。

A50ケンブリッジサルーンへのモデルチェンジ

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nissan-AustinA50.JPG
日産オースチンA50ケンブリッジサルーン

1954年9月、本国ではA50ケンブリッジサルーンにモデルチェンジされました。日産はA40サマーセットサルーンの完全国産化を前にして、継続生産かモデルチェンジかの決断を迫られますが、1955年1月に日産での生産もA50ケンブリッジサルーンにモデルチェンジされました。モデルチェンジが得策と判断されたのは、エンジンが1.2Lから1.5Lになり、当時の小型車規格で最大限の排気量となることからでした。

モデルチェンジによって国産化が完全に振り出しに戻ったわけではなく、A50ケンブリッジサルーンでは初期からある程度国産部品が使用されました。

A50ケンブリッジサルーンは1955年2月に発売され、先代同様、当時の国産車を乗り心地や走行性能で圧倒し、高い人気を得ました。また、国産化が進む中で、本国仕様に無い日本市場独自の展開もなされました。

1956年4月にはデラックスグレードが設定されています。1956年8月にはいすゞ、日野に先駆けて完全国産化を達成しました。

本国では1957年1月にトランクルームが拡大され、全長が伸びたA55ケンブリッジへ移行しましたが、日産はA50ケンブリッジを継続生産しました。

1957年7月にはベンチシートが採用され定員は5人から6人に変更されました。1958年10月にはマイナーチェンジを受け、エンジン出力が向上しました。リアウインドウが拡大され、後方視界も改善しています。1959年にはA50本国仕様車に設定の無いバンが発売されています。本国ではA55にバンの設定がありましたが、日産のA50バンと異なり後部座席のドアはありませんでした。

当初の契約通り7年経過した1959年12月に生産終了し、以降は在庫対応となりました。1960年4月、後継となる独自開発車の初代セドリック発売と同時に販売を終了しました。オースチンとの提携で得た技術やノウハウは、後の日産の発展に役立てられました。

A40の生産1号車、A50の生産最終車は日産が現在も保存しています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回は「日産オースチンA40サマーセットサルーン・A50ケンブリッジサルーン」について解説しました。

1950年代、日産はオースチン車のノックダウン生産・ライセンス生産を通してイギリスの自動車製造技術について学びました。

最後までお読みいただきありがとうございました。ぜひ他の記事もお読みになってください。

参考文献

昭和・平成に誕生した懐かしの国産車 渡部素次 三樹書房

60年代街角で見たクルマたち 日本車・珍車編 浅井貞彦 高島鎮夫 三樹書房

日産:NISSAN HERITAGE COLLECTION|オースチンA40 サマーセットサルーン

日産:NISSAN HERITAGE COLLECTION|オースチンA50 ケンブリッジサルーン

オースチンA40サマーセット・サルーン|トヨタ自動車のクルマ情報サイト-GAZOO

オースチンA50ケンブリッジ・サルーン|トヨタ自動車のクルマ情報サイト-GAZOO

日産 オースチン A50型|車両データーベース|アーカイブズ|トヨタ博物館

戦後、日産がお手本にした車です/日産 オースチン A40 サマーセット サルーン,1953年式(昭和28年)-日本自動車博物館|乗りもののまち 小松

部品も純国産の日本製オースチン/日産 オースチン A50 ケンブリッジ サルーン DX,1958年式(昭和33年)-日本自動車博物館|乗りもののまち 小松

日産が独自に開発したバンです/日産 オースチン A50 バン,1960年式(昭和35年)-日本自動車博物館|乗りもののまち 小松

A50ケンブリッジサルーン|名車文化研究所

Wikipedia日本語版・英語版

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