こんにちは!今回は初代小田急ロマンスカー1910形について解説します。
真の初代小田急ロマンスカー
1957年に登場した3000形SE車が初代小田急ロマンスカーとして紹介されることが多いですが、小田急が初めて「ロマンスカー」と呼んだのはSE車の3世代前の特急車で、小田急初の特急型車両である1910形でした。
特急の誕生と車両新造
1948年10月16日、小田急は戦前に運行していた「週末温泉急行」の復活として特急の運転を開始します。新宿~小田原ノンストップで、土日祝のみの運転でした。車両は3ドアロングシートの1600形のうち、復興整備車(当時、戦時中の酷使により車両が傷んでいた中、他の車両の整備の模範とする為に戦前の状態に近くなるように重点的に整備した車両)が使用されました。
当時、鉄道車両の製造は資材統制により、各社の申請に応じて割り当てられていました。1949年に小田急の申請が認められ、戦後初の新車として10両の制御電動車が割り当てられました。これに戦災復旧車(被災した車両から台枠を流用)の中間付随車を挟んで3両編成5本を組むことになりました。そのうち3編成は17m車体・3ドアロングシートの1900形、あとの2編成は特急運用を見据えた17m車体・2ドアセミクロスシートの1910形となります。クロスシート部分は4人掛けのボックスシートでした。
新造車は車体長17000mm、車体幅2700mmなのに対し、台枠流用の中間付随車は車体長16000mm、車体幅2800mmで不揃いとなってしまいました。しかし、車両が限られている当時の事情では仕方のないことでした。
1910形は特急車ということで小田急の標準色であった栗色ではなく、青と黄色のツートンカラーで塗装されました。
小田急は1910形の登場で初めて「ロマンスカー」の名称を使用しました。ロマンスカーは和製英語で、1927年に京阪が1550形の宣伝に用いたのが始まりとされています。その後、複数の鉄道会社が用いましたが、1990年代になって小田急が商標登録しました。他社で「ロマンスカー」と言うと2人掛けクロスシート車を指す場合が多いですが、小田急ではボックスシートの1910形をそう呼びました。
中間付随車の車端部には、車内で紅茶や軽食の販売を行う「走る喫茶室」のサービスカウンターが設けられました。「走る喫茶室」はその後長きにわたりロマンスカーを代表するサービスとなります。
1910形の運用
先に完成した1900形が7月9日より暫定的に特急運用に就き、1910形は8月6日より特急運用に入りました。8月13日には2編成が出そろいましたが、中間付随車が組み込まれて3両編成になったのは、それぞれ8月20日・9月11日でした。その後、10月のダイヤ改正で特急は毎日運転となりました。
特急車であった1910形ですが、車両不足と特急運用の間合いから通勤車の予備とされ、通勤運用に入ることもありました。
1950年8月1日より箱根登山鉄道の小田原~箱根湯本間に乗り入れを開始、箱根まで乗り換えなしで行けるようになり利用者が急増しました。小田急は軌間1067mm・架線電圧1500V、箱根登山鉄道は軌間1435mm・架線電圧600Vであり軌間も電圧も違います。この違いに対応し、小田原~箱根湯本を三線軌条とし、架線電圧を1500Vに昇圧、登山電車を複電圧対応に改造することで実現しました。
1950年12月には形式の付け方が大東急(小田急は1948年6月1日に独立)の方式から小田急独自の方式に改められたことで、2000形に改番されました。
1951年から1952年にかけ後継の1700形が登場したことから2000系は特急運用から離脱しました。1953年に塗装を栗色に変更、1954年には喫茶室のカウンターとトイレが撤去されました。1956年には3ドアロングシートに改造し1900形に編入され、2000形は姿を消しました。
その後、1900形は1974~1976年に廃車され、主電動機は4000形に転用されました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は「小田急ロマンスカー1910形」について解説しました。
初代ロマンスカーである1910形は、戦後の資材不足の中、限られた新造車に戦災復旧車を組み合わせたものでした。そして、セミクロスシートで通勤運用にも使えるようにすることによって実現した特急車でした。現在小田急の商標となっている「ロマンスカー」の名を初めて名乗り、長くロマンスカーのサービスとして定着した「走る喫茶室」も同車が始まりでした。
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参考文献
小田急ロマンスカー 生方良雄・諸川久 JTBパブリッシング
小田急電鉄の車両 大畑哲海 JTBパブリッシング
Wikipedia